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【NPJ通信・連載記事】色即是空・徒然草/村野謙吉

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「1984年」の倒錯世界と「茶の本」が教える和の世界(2の2)

2024年6月20日

 『1984年』が提示する支配の本質はなにか。
 それは、“自由”と“法治主義”という何人も是認せざるえない表層言説を掲げ、同時に二重思考の深層言説を使う全体主義的支配である。

 それは、「自由は隷属である(FREEDOM IS SLAVERY)」のスローガンの表層の矛盾言説をさらに進めて、それぞれの 西欧の“自由”と“法治” にも、西欧知識人の中に人種的差別にもとづく支配思想があることを『1984年』は前提としている。

 「賢明なる存在である神(God)が、魂、とりわけ善良なる魂を、黒く醜い体に入れておくということは信じがたいことである」

 これはモンテスキューの『法の精神』(1748年)の中の言葉である。

 そして『1984年』において行われる支配言説は、「虚偽は常に、真実の一歩前に先行している (the lie always one leap ahead of the truth) 」という重層的支配言説である。

* * *

 中華的伝統を維持した “法治主義” を掲げる中国は、西欧文明の負の成果である『1984年』の世界を承知の上で国家体制を維持しようとしているのだろうか。

 『1984年』の世界を鏡にして見れば、中国の一義的な政治的言説と、それにもとづいて行われる政治的・軍事的行動は、いたって無防備に見える。

 それとも中国は、中国が構想する世界観が『1984年』の全体主義を飲み込んでゆくと考えているのだろうか。

 中国は現在、壮大な「一帯一路」構想を展開し、「中国の夢」は世界に飛躍し、これまで軍事力を背景として植民地政策等で世界を席巻してきた西欧からは疑心暗鬼をもって見られているが、その原動力はなんだろうか。

・1840年、イギリス政府の直接指令の下に、当時清朝政府の中国に対する第一次アヘン戦争 勃発。
・1842年、イギリスに対して、中国は主権を喪失する「南京条約」に調印。
・1857年~1961年、第二次アヘン戦争に中国は敗北。
・1894年~1995年の日清戦争(中日甲午戦争)に敗北。
・1900年には、8カ国連合軍の北京侵攻に敗北。

 その結果、「中国政府は列強の鉄砲の脅しのもとに700余りの不平等条約」を結ばされ、領土割譲、賠償金支払いなどの恥辱を舐め尽くした。(1)

 その屈辱を背景に、中国は国家の統治方法にマルクス主義を採用し、長期的展望のもとに万里の長城を超えてグローバルに国運を展開しようとしているようだ。

 一方、日本は、終戦後も米軍基地を全国に駐留させ、首都圏一都九県に及ぶ空域はアメリカ軍の管轄下にあって、日本海を隔てて中国と向き合っている。

 そして、一部の日本のマスコミと評論家は、中国のアフリカ進出に危惧を抱き、時に反中を煽り、テレビでは日本文化を欧米の外国人に誉められて喜んでいる多くの視聴者たちがいる。

 いったい文明的視座において、日本という国家の歴史的価値観と将来の国運を日本の政治家たちは、どのように考えているのだろうか。

* * *

 『1984年』の世界において、日本人がもっとも留意しなければならないことは、中国やアメリカではない。

 日本人の内なる、典型的に旧日本軍の一部に見られた自国民差別の、そして戦後は、一部の知識人たちに見られる媚米、嫌中のいびつな深層情念である。

 1970年頃、親しくしていた在日マレーシア大使館のマレー系の商務官は、ある時彼の執務室で、自分には済んだことに特別の恨みもないがと言って、マレー半島における一部の日本兵の残虐な行為を具体的に語ってくれた。

 かって旧日本軍飛行隊員が住む一部屋のアパートを訪れたことがあった。独り住まいの彼の部屋の片隅には、日本刀が備えてあった。
 そこでわたしが直接聞いた話は、極限的状況で日本兵同士が殺し合う修羅場であった。

 「わがこころのよくて殺さぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人を殺すこともあるべし」
 親鸞が指摘する究極の悪業の世界を語ってくれた。

 映画「蟻の兵隊」に描かれた、中国大陸に部下たちを見捨ててさっさと帰国した上官たちは、その後どのような生活を送っていたのだろうか。

 帝国軍隊の一部に温存された忌まわしき情念と無知は、明治維新前から始まって日清戦争で肥大化し、終戦を経た今日でも温存されているのではないのか。

 もちろん、軍の上層部の命令の下に、戦地へ駆り出された多くの日本兵は本来は善良であったろう。

 わたしは、1970年ごろペリリュー島(現在のパラオ共和国)を訪れたが、年配の住民は日本語を話し、かっての日本人をなつかしむ人々であった。1943年のパラオ在住者は33,000人で、その内の7割は日本本土、沖縄、日本が統治する朝鮮や台湾などから移り住んできた人達であったという。
 移住してきた人々は現地人と平穏に共存していたのであろうが、当時この島を統治していた軍人も原住民に対して平等の態度で接したという。

 しかし『1984』の極限的な欺瞞の世界は、従来の人間性の残酷さとは異質の情念を黙示している。

* * *

 「わたし」たちは、今後どのような心の価値観で生きたらよいのか。

 東洋軽視と西欧コンプレックスが混在した思考に侵食された、特に戦後日本における一部の保守と進歩派の知識人たちとは違って、明治時代に、西欧の覇権文明の本質を敏感に感知し、英文で日本の伝統的価値観、美意識にもとづく心の価値観を世界に紹介した健全な心の日本人がいた。

 岡倉天心だ。
 かって三ヶ月間ほど完全点滴の入院生活を送っていたとき、わたしは病床で岡倉天心の『The Ideals of the East (東洋の理想)』を読んでアジアに目覚めた。

 岡倉天心の心の価値観は、西欧的な正邪・善悪の観念ではなく、東洋的美意識を身体感覚で受け止めて生きてゆく「和の世界観」である理解している。

 そして岡倉天心の東洋の心の価値観は、幸いにご面識をいただいた鈴木大拙師の志ともつながっている。

岡倉天心(Wikipedia)

 

「西欧人は、日本が平和でもの静かな芸能に身を任せていた間は野蛮国とみなしていたものだが、日本が満州の戦場で大規模な殺戮に関わって以来、日本を文明国と呼んでいる。

彼らは、最近は武士道、つまり吾等がサムライたちをして自死することに狂喜させる死の儀礼(Art of Death)に大いなる関心を寄せているが、吾等がいのちの芸術(Art of Life)と呼ぶべき茶道にはほとんど注意が向けられていない。

文明というものについての我々の主張が、戦争という身の毛のよだつ栄光であるなら、我々はよろこんで野蛮人でいたいと思う。

我々の芸術と様々な理想に対して正当な尊敬の念がなされる時がくるまで、その時を我々は喜んで待ちたいと思う。」
 (岡倉天心「The Book of Tea(茶の本)」(2))

 天心とほぼ同時期に、日本人の心の価値観を英文で西欧に表明した二人の人物がいた。

 内村鑑三と新渡戸稲造である。二人は札幌農学校に学び、函館に駐在していたメソジスト系宣教師から洗礼を受けてクリスチャンとなった。

 その後、内村は1884年に私費で渡米したが、拝金主義と人種差別の流布していたキリスト教国の現実を知って幻滅、4年後に帰国してアメリカのキリスト教と一線を画した日本独自の無教会主義を唱えた。
彼が愛したのは「二つのJ」すなわちJapan とJesusであった。

 新渡戸も1884年、「太平洋の架け橋」になりたいと渡米、伝統的なキリスト教信仰に懐疑的となり、やがてキリスト友会 (クウェーカー)の正式会員となった。
 1891年、妻メアリー・エルキントンを伴って帰国。その後国際連盟事務次長として活躍した。

 内村鑑三の「Representative Men of Japan (代表的日本人)」は1894年に出版された。
 新渡戸稲造の「Bushido: The Soul of Japan(武士道:日本の魂)」は1899年に出版された。
 そして岡倉天心の「The Book of Tea」は1906年に出版された。

 天心が内村鑑三と新渡戸稲造の、それぞれに独自の日本人観に、どのような批判的評価をしていたのか知らない。

 天心の「いのちの芸術」は茶道であるが、「The Book of Tea」は、趣味で飲むお茶についての本ではない。

 『1984年』の世界が「戦争という身の毛のよだつ栄光」を維持する究極的世界であるなら、そこは「わたし」たちが「よろこんで野蛮人」でいることを許されるような現実ではないだろう。

 それでも『茶の本』の世界は、東西文明論も含めて、鋭い歴史的文化的政治的洞察に満ちた著作であり、日本的自己確認の言説である。

 本書は、簡潔かつ印象的な千利休の自刃、つまり天心が批判した「死の儀礼」の場面で終わる。

* * *

 ポーランドの思い出からオーウェルの『1984年』に話がおよんで、取り止めもなく様々の思いに悩まされながら『茶の本』にたどり着いた。

 地球全体に、未曾有の異様な闘争精神に満ちた流れを感じるのは、「わたし」の妄想であろうか。
 日本に生まれ育った多くの日本の「わたし」たちは、毎日のひと時、心を鎮めて一碗の茶を口に含んで、和敬清寂の心の価値観を確認しようではないか。

 そして、これまでの人類史を大観し、人種的偏見を超えて、文明的大局観のもとに、平和の世界を目指してゆこうではないか。

* * *

 最後に、天心にまつわる逸話を紹介したい。

 1903年 (明治36年)、天心はアメリカのボストン美術館からの招聘を受け、横山大観、菱田春草らの弟子を伴って渡米した。

 羽織・袴で一行が街の中を闊歩していた際に、1人の若いアメリカ人から冷やかし半分の声をかけられた。
 “おまえたちは何ニーズか? チャイニーズ? ジャパニーズ? それともジャワニーズ?”

 そう言われた天心は、応答した。
 “我々は日本の紳士だ、あんたこそ何キーか? ヤンキーか? ドンキーか? モンキーか?” (3)

———————————

* 本文中、引用文の誤記、一定の内容について意図しない誤解などがあれば、ご指摘を受けて、感謝をもって訂正したい。
(1) 李君如『中国の夢とはどんな夢か?』(原文・『中国梦、什么梦?』)外文出版社, 2014年.
(2) He was wont to regard Japan as barbarous while she indulged in the gentle arts of peace:
he calls her civilised since she began to commit wholesale slaughter on Manchurian battlefields.
Much comment has been given lately to the Code of the Samurai — the Art of Death which
makes our soldiers exult in selfsacrifice;
but scarcely any attention has been drawn to Teaism, which represents so much of our Art of
Life.
Fain would we remain barbarians, if our claim to civilisation were based on the gruesome glory
of war. Fain would we await the time when due respect shall be paid to our art and ideals.                    (3) 齊藤兆史『英語達人列伝―あっぱれ、日本人の英語』(中公新書)
“What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?”
“We are Japanese gentlemen. But what kind of kee are you? Are you a Yankee,or a donkey, or
a monkey?”

(2024/05/28 記)

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