各国からの留学生に囲まれて
世界中から学生が集まるNY。(NYにも遅い春が来て、みんな陽だまりを楽しんでいる)
■世界42カ国からの学生
5月末には、ロースクール卒業である。時がたつのは早い。私の通うプログラムは、各国で法律家としての経験をもつ者が、
アメリカ人学生に混じりながら好きな分野を集中して学ぶというもので、1年で終了。1年の間、アメリカ人の友達もたくさんできたが、
日常を共にすることが多いのは世界42カ国から集まる法律家たちであった。
大教室の授業。100人くらいの授業から10人程度の授業までさまざま。
概して人権関係の授業は人数が少ない。
留学生217人の構成は、日本人が33人で最大、続いて25人程の中国人、66人がヨーロッパ (ロシア・東欧からも少なくない) からで、25人がラテンアメリカ、
残りがカナダ・オセアニア含むその他の国からである (ちなみにアメリカ人学生は約1200人いる)。
年間学費だけで500万円近くかかるため、発展途上国の学生はとても少ない。
アフリカからは3人 (うち一人は南ア)、中東はパレスチナ人1人、イスラエル人11人 (!) を除いて誰もおらず、アジアも、タイ2人とインド13人以外、
発展途上国出身者はいない (ロースクールではなく、お隣の国際関係学部ではもう少しバラエティ豊かになるが。)。
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たくさんの国からの留学生。文中のほか、なかなか日本では会えない国籍としては、アルバニア、セルビア、リトアニア、ボリビア、
パラグアイ、ハンガリー、ブルガリア……
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アジアの学生と。東アジアの学生は英語が苦手。出身国同士で固ま
りがちになり、圧倒的マジョリティなのに存在感がないという残念な状況である。
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ロースクールへの留学生の多くは国際企業弁護士である。また、私のように国際人権に絞って学びたいという者も10人程いるだろうか。
さらに、裁判官、検察官、政府官僚、政治家志望者などがいる (もっとも、欧米人には、国際企業法務も人権も両方やりたいという人がとても多い。
アジア人には残念ながらあまり多くはないのだが。)。
こんな国際的な環境の中にいては、日々、興味深いことばかりおきる。
■メイド
大の仲良しに、ベルギー人のアンがいる。国際人権に興味があり価値観を一番共有できる友人である。ある日、アンが、「聞いてよ!」 と、興奮してやってきた。
ルームメートともめているというのである。
彼女は大学の寮に住んでおり、日本風に言えば3DKマンションに学生3人で住み、一部屋ずつを一人一人の部屋にしている (NYは家賃がべらぼうに高いので、
学生の多くはアパートをシェアしている。)。アンのルームメートの一人は、南アフリカからのカレン。そのカレンがアンに、家でメイドを雇おう、と言いだしたのである。
アンは、
「人を使うなんて考えられない。アパートの部屋なんて狭くて、掃除するったって20分もかからないのに! 私たち学生だし!」
「カレンはお皿洗ったり洗濯をしたことがないんだって!」
「カレンは、“メイドも仕事が欲しいんだから、雇われて幸せなのよ” っていうのよ。でも、そういう問題じゃないと思わない?」
「でも、カレンって南アフリカの白人でしょ。だから、カレンに怒っても仕方がないんだろうけど…。」
…その後二人は、それぞれの両親に相談することにした。その結果をアンに聞くと、
「もちろん私のお母さんは、『自分の身の回りのことは自分でしなさい』 って言ったわ。『メイドなんてふざけるんじゃない』 って。
でも、カレンのお母さんは、『洗濯や掃除なんてあなたがすることないわ。メイドを雇いなさい』 って言ったの」……。
結局、メイドはやめになり、共用のキッチンやバス・トイレは、アンが折れて掃除をすることになり、自分の部屋くらいはカレンが自分でやることになったようである。
■上流階級
発展途上国出身の留学生の多くは各国の上流階級の出身である。自国の家にはベッドルームが10 (!) あるとか、どこへ行くにも送り迎えの車があったなどと話す。
冬休みに帰国をしていたインド人の友人が、学期が始まり戻ってきて、「冬休みの間に、ハンドバックを6個、ブーツを4足買っちゃったわ」 と言っていた。
「卒業したらどうするの?」 「私の彼氏もこっち (アメリカ) の会社でビジネスマンしてるし、私もこっちのローファーム (弁護士事務所) に勤めるわ。」。
こちらのビジネスローファームでは、あっという間に年収2000万円である。
ここで発展途上国出身の学生と話していると、その国が貧しい国であるということを忘れてしまう。
そんな折、インド旅行に出ている日本の知人から、「この国では道路の脇で、人が飢えて死んでいきます」 というメールをもらった。
■自分の国って何だろう
学生サークルの主催で、各国の映画を見てその国の問題について議論をしよう、というイベントがあった。私も何回か参加した。
ブラジルの回では、リオ・デジャネイロの徹底的に貧しいスラムで、ドラッグを売って生活をする人々の中で抗争が起き、子どもまでもが銃を持って皆殺し合い、
警察も賄賂で動くため取締りも行われない…という、悲しい現実を描いた映画を見た。
が…一番ショックだったのは、その後のブラジル人学生からの説明であった。
「映画は20年ほど前のもので、今はもっとひどい状況になっている。」 「今はスラム間での殺し合いが頻繁である」
「ドラッグの売人の平均年齢は20才以下だ」…それは大変だ…と聞いているうちに、彼らはドンドンと不満をぶちまける。
「スラムはみるみる拡大している。以前は、私たちのエリアだった地域を浸食し続けているからたまらない」 「私の学校は校舎を閉鎖して移さなければならなかった」
「あいつらは、出産コントロール (birth control) を知らないから、次々子どもを産む」 「やることがないから、犯罪しかしない。」
「18才以下は刑務所でなく特別な学校 (少年院?) に最大でも2年間しか行かないから、すぐ出てきてまた悪いことを繰り返す」
ひたすら、そこにいたブラジル人5人で、貧しい人たちへの不満を30分間延々と言い続けた。当然、全員、白人。
私たちが 「ブラジル人」 という響きから想像する、日本に出稼ぎで来ている 「ブラジル人労働者」 のような肌の色の人は一切いない。
いたたまれなくなって、「彼らも好きで貧しいわけではないだろうに。」 「政府の対応は?」 と聞くと、「政府も賄賂でしか動いていない。
手のつけようがない。」 「改善する方法などない。」…。
「自分の国を良くする方法が全くなくて、あきらめるしかないなんて、しかも、急速な発展を続けている地域大国ブラジルで、
そんなことを言ってて悲しいじゃない?」 と言うと 「それが現実だ」 と。
ちなみにブラジルの成長はめざましい。アメリカ企業はブラジルとの取引を強く欲しており、
欧州人や日本人はもちろん中国人まで就職難に苦しめられている景気の悪いアメリカにおいて、ブラジル人弁護士だけが引く手あまたである。
そんなブラジルなのに…。
■貧 困
南アからのカレンも、インドの学生の大半も、国に戻っても未来はない、アメリカに残る、と言う。
奨学金で留学しているインドの少数民族出身の人権弁護士の友人に、「みんな自分の国の問題から全く目を背けていて、国に戻る気がない。悲しすぎる」 と訴えると、
「でもね、そういう人は国に戻ったところで金儲けしかしないんだから、アメリカにいてもインドに戻っても同じなんだよ」 との答えであった。
もちろん、中には、人権のために文字通り命をかけて戦っているジンバブエ人弁護士や、インドを良くしたいと政治家志望のインド人もいる。
他の国の人がいくら手をさしのべようと、その国の人の努力がなければ、国が良くなるはずはない。
世界全体が良くなれば国境には全くこだわらない私であるが、それでも 「あんたたち、もっと自分の国のために努力しようよ。
苦しんでる人だけ残して逃げないでよ」 と叫びたくなってしまう。
しかし、全ては貧困・貧困・貧困である。貧困、そして格差が、各国の、才能も地位もある人々を絶望させ、これほどまでに自分の国への興味を失わせている。
そして実際に、貧困は諸悪の根源である。貧困から犯罪も人権侵害も戦争も生まれる。
ここでの体験で、貧困問題をなんとかしなければ世界の発展も人権の改善もない、と痛烈に感じた。
日本が発展したのも、安全であるのも、他国に比べ貧富の差が小さかったからであることは間違いない。日本社会への教訓でもある。
■日本人の人権弁護士である私
この原稿を書いている時、日本から 「イラク自衛隊派遣は憲法9条に反し違憲」 との歴史的判決のニュースが飛び込んできた。
うれしくて、興奮して、いてもたってもいられない。ここにいては何もできないのだが、アメリカ人や日本人留学生の何人かに喜びを伝えた。
弁護団の事務局長は、司法研修所同期で机を1年間並べた川口創弁護士。さっそくお祝いのメールを送った。
こんなとき、人権問題や社会問題に真っ正面から取り組める人生を送っている私はとても幸せであると改めて感じる。
現在の日本では、そんな取り組みはなかなか広まらなかったり、裁判所にも認められなかったりで、こんなことやってられるか! と思うこともしばしばである。
しかし、自分が担当した事件でもないのに、こんなにうれしいのは、どういうことか。たまらなくうれしい。
おこがましいかもしれないが、社会問題に取り組む人生は、悲しみも多いけれど、喜びも幸せも人一倍多い。豊かな人生である。
どこの国にも問題は山積みである。まだもう少しこちらで過ごす予定ではあるが、このニュースを聞き、
早く日本に戻って日本の問題に取り組みたい! という気持ちに駆られた。
あっと間に卒業。コロンビアロースクール、ロビーにて
(2008年 「まなぶ」 4月号掲載)
大統領選挙をついに街で感じ始めた!
2008.4.16
■アメリカ大統領予備選挙
今、アメリカの大統領選挙の 「予備選挙」 が、世界中を騒がせている。予備選挙とは、各党の公認候補を決めるための選挙である。
各候補は自分の属する党に大統領候補としての指名をしてもらうために、この予備選挙で勝利しなければならない。
注目はもっぱら民主党の予備選挙に集まっている。
それは、歴史上最悪とも言われるブッシュ大統領に疲れた国民 (アメリカ人の友人は口をそろえて ”tired” という単語を使う)が、
11月の本選挙では共和党ではなく民主党の候補者を選ぶであろうという見方が強いためであり、また、共和党では明らかにマケインが指名を勝ち取りそうだからである。
世界中が、バラック・オバマ上院議員と、ヒラリー・クリントン上院議員の一騎打ちに注目している。
毎週、全米のあちこちの州で予備選挙が行われている。予備選挙は州ごとに行われ、1月3日のアイオワから、6月12日のネブラスカまで、息の長いレースである。
どうせなら同じ日に全州がやればいい、と思うのだが、アメリカの州は日本の私たちが思っているよりも独立度が高いからか、
みんないっぺんに、とはならないらしい (お金がかかるのに!)。
「We Need Change!」 「We Need Change!」 ラリーの盛り上がり
■スーパーチューズデー前夜
予備選挙の中でも注目されるのがスーパーチューズデーである。スーパーチューズデーとは、多くの州が予備選挙を行う日のことであり、
この日に大統領候補者が決まることも少なくないため、とても注目される。今年は、2月5日がスーパーチューズデーであり、22の州で民主党の予備選挙が行われた。
3日前の土曜 (2月2日)、私は友人に誘われて、オバマのラリーに出かけた。場所は、マンハッタンのど真ん中、セントラルパークの一角。
その日のラリーは 「Women for Obama」 とのことで、オバマ氏本人はいなかったけれど、有名な女性の人権活動家や学生が次々マイクを握って、
演説をしたり歌を歌ったりして、オバマ支持を訴えていた。合間にかけ声に合わせ、「We need Change! We need Change!」 「Obama! Obama!」 と皆が叫び、
盛り上がりをみせていた。もっとも、NYでは、ヒラリー氏の優勢が伝えられていたからか、マイナスの寒さであったからか、思ったほどの人出ではなかった。
スーパーチューズデーの直前なのに300人くらい? やっぱりNYではヒラリー?
オバマバッジ購入!
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Girls for OBAMA.....
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■オバマの街頭演説!!!!
かく言う私は、生でオバマを拝んだことがある。さかのぼるが昨年9月、オバマがNYに来る! ということで、私は授業をほったらかして演説を聴きに行った。
演説は、NYのワシントンスクエアパークという中規模サイズの公園で行われた。さっそく、ウェブサイト上から入場券を予約。
こちらでは、選挙もネット化されており、当日はWEBのチケットを紙に印刷し、入場制限されている公園の入り口でその紙を見せて入場する。
その後、セキュリティチェックの列に並んだ。アメリカだし、危険だし、警備とかきっちりしているんだろうなーーと思いながら、満員電車状態の公園のロープの列の中、
お行儀良く待ち続けた。ニューヨーク大学のすぐ隣に位置する公園であることもあってか、参加者は見事に若者ばかり。
20代がほとんどで、50才を超えている人は一握り、平均年齢30才以下とも思える集団であった。日本ではそんなことはまずない。
なお、その日の最終的な発表では、2万5000人集まっていたらしい (おーい、そんなにいたか??)。
待つこと2時間、オバマ到着! ・・・とたんに皆は興奮して、柵を乗り越え、セキュリティチェックも完全に無視して、
だーっとステージに向かって走り出していった・・・今までの2時間は何だったんだ? アメリカの警備はどうなっているんだ? ・・・
みな自由奔放にオバマのいる舞台に走り寄っていった。・・・私も、負けじと走って、かろうじて、オバマが遠くに見え隠れする位置を確保し演説を聴いた。
私の見た生オバマ
彼はとにかく演説がうまい! その演説のうまさ、カリスマ性には驚嘆する。
イラク撤退から社会保障から、聴衆に学生が多いことを見越しての学費の値下げ (急増している。
この10年間でコロンビアロースクールの学費は年間約2万5000ドル (約300万円弱・1997年度) から約4万5000ドル (約500万円弱・2007年度) となった (怒!)) まで、
幅広いテーマについて、極めて歯切れ良く簡潔に訴え、最後は、みなを盛り上げて、「Let’s change the world! 」で終わった。
ファンでなくても、陶酔する圧倒的な雰囲気であった。
■スーパーチューズデー
さて、話を戻そう。2月5日、スーパーチューズデー当日は、駅前などで、OBAMAなどと名前の書いたジャケットを着て 「オバマに投票を!」
「ヒラリーに!」 と熱心に呼びかけている人がおり、私はその都度に 「私はアメリカ人じゃないんです」 と答えざるをえなかった
(こちらでは、外見では区別がつかないので私も声をかけられる)。
夜、カフェやバーを借り切って、開票速報を皆で見るイベントが学生団体により行われた。さながら日本でのサッカーのワールドカップ観戦である。
大きなスクリーンを囲み、速報が進む度に歓声やどよめきが上がった。共和党も予備選挙をやっているが、学生の会話は民主党についてばかりであった。
激しく盛り上がるのは、ある州でオバマが勝ったとの報道が流される時であった。
開票速報を見にバーに集まった学生たち。わかりにくいが、奥に大きなスクリーンがある。
オバマは特に若者からの支持が厚い。さらに、コロンビアが一応はリベラルと評されている大学だからか、オバマがコロンビア大学の卒業生であるからか、
その場で圧倒的な人気であった。NY州はヒラリーの地盤であり、最終的にもNYの予備選ではヒラリーが大差をつけて勝っている。
弁護士を目指す若者が集まるロースクールというのは、リベラルな集団なのであろうか。
もっとも、私が親しくなるアメリカ人は、同じ授業 (人権関連科目) を取っていたり、社会問題に興味がある人ばかりである。
・・・従って、気づいてみたら私の周りのアメリカ人は皆オバマファンばかりであった。相当熱烈なファンもいて、オバマバッグを買い求め、
毎日、コートの胸にオバマワッペンを貼っているとてもかわいい女の友人もいる。
アメリカ版ミクシー (face book といいます) の自己紹介欄に、「大好きな人:OBAMA」 と書いている子もいる。
スーパーチューズデーまでは、みんなして、「オバマきっと無理よね」 「大丈夫かしら」 と心配していたが、このところの快進撃にみんな笑顔を取り戻している。
もっとも、アメリカの大統領選の興奮はまだまだで、まだ 「町が大統領選で大騒ぎ」 というほどにはなっていない。
アメリカ人学生たちは大統領選挙の話をしてはいるが、やっと最近、地下鉄などでオバマバッチに気がついたり、
学生のロッカーにステッカーが貼ってあるのに気がつくようになった程度である (もっとも、いろんなグッズが売っており、
犬に着せるオバマ服まで売っているらしいが。) とはいえ、まだ、選挙は始まったばかりで、今の時期から大興奮になっていては11月の本選挙までもたないのであろう。
■あれこれお国事情
一大新聞であるNYタイムズが、ヒラリーとマケインを支持すると決定。
日本では、大手メディアが名指しで候補者の支持を表明することはまずないのではないかと思うので、すこしとまどった。
NYタイムズはスーパーチューズデーの前日に、ヒラリーとオバマの政策の違いについて記事を載せ、
「唯一の違いである社会保険制度改革はヒラリーの方がこんなに優れている」 と大々的に掲載した。NYという大票田で、投票日前日のこの記事は大変な影響力であろう。
選挙におけるネットの利用もものすごい。私が一度オバマ選挙演説に参加してからというもの、3日とおかずオバマ陣営からE−mail が送られてくる。
YOU−TUBEにも、候補者の支援の演説やら歌やら踊りやらがたくさんアップされている。
今回の選挙はYOU−TUBE選挙とも言われたりするようだ (例えば http://www.barelypolitical.com/)。
などなど・・・。選挙についての情報は日本語でも英語でもあふれまくっているし、事態は時々刻々変わっていく。
従って、全体像の解説などはとてもできないが、これからも、現地で体験した町の反応を時折お伝えしていく。
そして、日本での若者の政治離れの解明を少しでもできたら、等と思っている。
日本でもいつの日か、20代の若者が詰め掛けた満員の居酒屋で開票速報を囲んで盛り上がる、とか、
平均年齢30歳の2万5000人が政治家を囲んで公園を埋め尽くす、とか、そんな日が来ることを祈って・・・。
(2008年 「まなぶ」 3月号掲載)
2008.4.5
■■ 市 民 パ ワ ー ■■
■NGOの存在感!
こちらで一番感激したことは、NGOの存在感である。授業中でも、日々の生活でも、国連でも、常に驚かされている。
環境だとか人権だとか平和だとかについて何かが決まる時、そこにはNGOがある。
経済や融資などについても、国連レベルで何かが決まるときには、そこにもほぼ間違いなくNGOがある。
ものすごい変化である。国際社会ではずっと登場人物は国家だけだった。条約を結んだり、そのための交渉したり、は、国家にしかできず、
私たち市民には当事者適格がなかった。しかし、国際政治の現場でそれが変わりつつある (いわゆるNGO (Non Government Organization=市民団体) だけでなく、
企業も大きな影響力ではあるが)。
日本では、NGOはなんだか狭くてオシャレではないオフィスにボランティアが肩を寄せ合いながら活動をし、政府もマスコミも相手をしてくれなくて、
頑張っても報われない……みたいな感じだが (失礼! でも、こちらのNGOの強大さに比べたら、そうとしか言いようがない。)、
アメリカでは、マスコミでも国会議員でも何かにつけて、「アムネスティ (世界最大の国際人権NGO) によれば……」 である。
NGOの力を痛感したのは、前回ご紹介した国際刑事裁判所の締約国会議の場である。
Coalition for ICC = CICC (国際刑事裁判所のためのNGO連合) が、全てのNGOをとりまとめ、政府へのロビーイングを大展開し、
会議の議事録をとり、配付資料を集めて即座にホームページに掲載していた。
NGOセッションにICCの裁判所書記 (事務方の長・現在の ICC一番の権力者?) が出席し、
丁寧に ICCの現状を説明した。写真は紹介された ICCの法廷内部の様子。NGOへの説明も国際機関の大事な仕事…
■国際刑事裁判所の締約国会合の場にて
国連に加盟できるのはもちろん 「国」 しかない。締約国会議の当事者も国である。しかし、加盟国が、国名の書いてある席に座る中、
NGOも 「Non Governmental Organization」 と書いた名札の席につく。(あふれた人はその回りに座る。) 議場入り口には、NGOの資料が山と積まれており、
みな次々手にしていく。CICCは、各議題にそってペーパーを用意し、それを一読すると 「現時点の問題点は何か」 が一目瞭然である。
NGO席に座るNGO関係者たち
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議場前の資料・皆立ち寄って手にしていく
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CICCの目的は、国際刑事裁判所を設立し、世界の国々に批准させ、ICCを実際に意味あるものとしていくことである。
セントルイスとか、カーボヴェルデとか、それはいったい全体どこにある国なのか、
本人に説明を聞いても場所がなかなか思い出せないような (ごめんなさい!) 国からもNGO代表者がきていた。
担当者が随時変わる各国政府代表よりも、この問題だけを追い続けているCICC担当者の方が情報に詳しくなるであろうし、
世界中の2000のNGOの連合体であるから、そんじゃそこらの国よりは影響力もある。
締約国会議では、NGOも30分の時間をもらって発言を許されていた。CICC、アムネスティ (AI)、ヒューマン・ライツ・ファーストと名だたる人権NGOが、
持ち時間5分で次々報告をした (国連加盟国は192カ国もあるため国の持ち時間も同様に短い)。
締約国会議開催の2週間、ほぼ毎日CICC主催のイベントが開かれた。地域ごとに政府を招いての意見交換会、被害者の権利などの問題点ごとのセッションなど。
以前は、どの政府もうるさいNGOは嫌いであったろうし、得体の知れない市民の集まりであるNGOを相手にする必要はないという姿勢であったろうと思う。
しかし、現在ではその存在を無視できず、政府もNGOミーティングに参加する。今回、アジア・太平洋セッションには、我が日本政府が初めて顔を見せた。
大変うれしいことである。日本のNGOからの参加者 (私ともう一人) は、ほっと安堵し顔を見合わせた。
アジア・パシフィック政府・NGOミーティング、初めて日本政府が参加した!
夜にはNGO主催のレセプションが開かれ、ICCからも主席検察官を初め多くのスタッフが参加し、また、政府からも、驚くほどの参加者があった。
こんなに多くの国が来ているのだから 「日本政府も来てくれないと恥ずかしいよーーー。」 と祈っていたら、当選したばかりの齋賀裁判官自ら他の代表団と共に現れ、
私たちはまたまたほっとした。齋賀さんとお話しすると 「NGOも政府も目的が同じなのだから、お互いに、もっと協力してやっていけるといいわね」。
……本当にそうですよ。どうかお願いいたします。
齋賀裁判官とお話ししました。是非とも、日本でもNGOとの交流を!
CICC会合の最後には、アジアのNGOのメンバーが部屋の隅に集まり、「今年は日本が批准したから、後が続くように頑張ろう!」
「ウェブ上でアジアのNGOをつなごう」 と話し合って別れた (中国からのCICCへの出席者は、なんと、中国の元最高裁判事!)。
アジアのNGO代表で集合。インドネシア、フィリピン、中国、ベトナム、中国、日本…
■大学の授業で
これは、一例に過ぎないが、国連の少なくない会議で同じようなことが展開されていると聞く。
WTOの会議では、反グローバリズムのNGO行動が、開会式を中止に追い込んだりもしている。
国際政治学を学ぶと、国家がいかにNGOを無視できなくなってきているかを実感する。何度、国際政治の授業の中でNGOの名前を聞いたことか。
環境NGOグリーンピース、開発NGOオックスファム、人権NGOアムネスティ (AI) やヒューマンライツウォッチ (HRW) などなど。
人権クリニックという授業の中では、「AIとHRWの手法を比較し、利点と欠点を指摘せよ」 とかいうテーマで議論をした。
日本では、「NGOって何?」 とか、「アムネスティってなんだ?」 という質問を受けかねないのに……。
■日本では
私はアムネスティ日本の会員で、ボランティアを10年間続けてきた。最後には、名前だけでも 「総会議長」 という肩書きをもらって4年間すごした。
この10年間であっという間に、世界中のアムネスティの会員は100万人から220万人になり (約150カ国!)、
ロンドンの本部のスタッフも200人と聞いていたのが500人になったとか。 9.11以後、会員がみるみる増えたとのこと。
戦争ばかりでうんざりの世界の状況に、「何かしたい!」 人が激増したのだろう。
これに反して、日本支部は、10年前は1万人近くいた会員が今は約半分、職員は非専従を入れても10名である。
アムネスティUSAの会員36万人、スタッフ165人と比べると、いかに悲しい数字であるかがよく分かる (アメリカの人口は日本の2倍強、
同じ比率で会員がいるとすると日本には17万人近くの会員がいて良いことになる……)。
この10年間、日本でもNGO活動は一部発展してきていると思う。外務省と国際NGOの意見交換の場が、定期的に設けられるようになったりしている。
しかし、アムネスティ日本の現状に象徴されるように、特に、人権関連のNGOの参加者の広がりは、日本社会の右傾化に伴って、残念ながら下り坂のように思う。
アメリカで 「アムネスティ日本の総会議長でした」 と自己紹介すると、人権の授業を選択する学生はあこがれのまなざしに変わるのだが、
日本の現状を説明すると、みな???マークでいっぱいの顔になる。なんで、「世界のアムネスティ」 なのに、日本ではそんなにNGOが形見を狭くしているの? と。
■これから
私は渡米後アメリカ最大のNGOであるHRWでインターンを開始し、卒業後1年間、HRWで働くことになっている。
世界最大級のNGOがどんな動きを作り出しているのか。日本にその術を持ち込めるのか、盗み出したいことは山のようにある。
聞いてはいたが、この世界での、NGOの存在感を自分で目の当たりにすると、私たち一人ひとりの可能性の大きさを感じてわくわくしてたまらない。
日本の市民社会は、この間の日本社会の恐怖なまでの右傾化など、ブルーになることも多いんだけれども、
そして、なんで日本がこうなのか全くわからないんだけれども、……でも、広い視野で見ると、世界中の市民はめちゃめちゃ元気で、
その流れは誰かが止めようとしたって止められないところまできている。これには本当にわくわくする。
もっとも、2008年。日本でのNGOの力強さを見るチャンスが、実はたくさんある。
洞爺湖サミットに対するNGOフォーラムの動きも楽しみだし、なんといっても5月には 「9条世界会議!」 も開かれる。
ノーベル平和賞受賞者などがあつまって 「憲法9条ってすごくない?」 ってな大大イベントやります! みなさま、お見逃しなく!
(2008年 「まなぶ」 2月号掲載)
2008.3.16
国連での国際会議!
NYには国連本部がある。そのため国連の会議にすぐ参加でき、おかげで 「Wow!」 という場面にしばしば出会う。
この半年間の私の国連での 「Wow!」 は、国際刑事裁判所を巡って2度、起きた。一つ目は、国際刑事裁判所への日本政府の寄託式。
二つ目は、国際刑事裁判所の締約国会議 (潘基文国連事務総長も拝んだ) である。
(もっとも、何に一番感激したかというと、国際社会における、圧倒的なNGOの存在感である。頁数の関係でNGOについては次号以降)
ICC締約国会議の会議場。国連の会議はこんな感じで行われています。
■国際刑事裁判所 ( ICC:International Criminal Court)
国際刑事裁判所とは、重大な人権侵害の責任者を裁く国際法廷である。東京裁判やニュールンベルク裁判の名前は耳にしたことがあると思うが、
大戦後、人類は、「二度と過ちを犯さぬよう、重大な人権侵害の責任者には法の裁きを受けさせなければならない。」 と悟った。
しかし、ある国において、激しい殺戮行為が起きても、その一番の責任者はその国のトップであることも多く、往々にして国内での裁判にかけられることは少ない。
国の中でやりたい放題であるのが常である (昨今のビルマがいい例)。しかし、責任逃れを許さず、続く人権侵害を止めねば!…ということで、
ながーい検討の末…1998年、長年の人類の夢かなって、ついに ICC規程が採択され、国際刑事裁判所が動き出した。
裁判所はオランダのハーグにあり、裁かれる犯罪は、戦争犯罪、ジェノサイド、人道に対する罪、侵略の罪。
■日本の批准
日本政府は、この輝かしい国際刑事裁判所のローマ規程になかなか批准しなかった。1998年に ICC設立が決まったのに、
60カ国が批准をして裁判所が実際に動き出しても、批准国が 100カ国に達しても批准しなかった。
米国が自国の兵士が訴追されてはたまらないと批准しないため、その顔色をうかがっていると言われていた。
日本のNGOも、CICC ( ICCのためのNGO世界連合:Coalition for the International Criminal Court) も必死で日本政府ロビーを行い…そして、
やっと9年後の2007年、ICC関連法が国会を通過した。
私が、立ち会うことができたのは、続く、日本の加入書の寄託式である。
2007年7月17日、NY国連本部内の署名室 (「signature」 という部屋) にて、大島賢三国際連合日本政府代表部大使から、
国連の法務局条約課長への加入書寄託式が行われた。NGOからたくさんの人が来ており、記者もそろい、狭い会場は人でいっぱいであった。
大島大使は、そんなに人が集まっているとは思っていなかったようで、びっくりしていた。
国連のミシェル法律顧問が大島大使と握手をしながら、「日本は少し時間がかかったけど、日本みたいに批准までに時間をかけて国内法を整備する国と、
全く何も国内整備をしないですぐ批准する国とあるけど、日本はしっかりと用意をする国だからこのくらい時間がかかったんだね。」 と、
仕方ないね、というか、日本はしっかり準備をするちゃんとした国だね、というのか、少しばかり皮肉なのか…・、自分で納得するように? 話をしていたのが印象的であった。
もっとも、その場にいて一番うれしそうにしていたのは、やはりずっと頑張ってきた世界各国のNGOの人々であった (次号以降に詳述)。
CICCが、「日本の ICC条約批准は ICCの新たな幕開けを意味する」 との声明を出したくらい、この加入書寄託の瞬間は輝かしい瞬間であった。
それにしても、寄託式には人が集まり、日本への期待は大変なものであった。日本は実に大国である。条約に日本のような大国が入っていないことは、
条約の価値をひどくおとしめる。日本政府は 「お金ばかり出して人 (軍) を出さないから国際社会でのプレゼンス (存在) が低い」 とか嘆いていないで、
もっとこういう分野で率先してリーダーシップを発揮すればいいのに、と私は思う。
(詳細は 2007.7.19付 「猿田佐世のニューヨーク便り」)
■締約国会議 (裁判官選挙)
その約4ヶ月後の11月、ICCの締約国会議が国連本部で開催された。日本は、初の締約国としての会議参加となった。
私は、日本弁護士連合会の一員 (日弁連は国連協議資格を持つNGO) として会議に参加した。
議場の様子。前に、国際刑事裁判所の裁判官選挙用の投票箱が並んでいる。
* * *
空席となっていた3名の裁判官の選挙が会議の目玉であった。立候補者は5人。日本からは齋賀富美子さんが立候補していた。
私は、齋賀さんを、齋賀さんが裁判官候補者になるまで知らなかった。そもそも名前が挙がった頃、まだ日本は ICCに入っていなかったので、
もっぱらの話題は日本の批准の可否にあった。
議場でいきなり私によせられたのは、「どうなの、お宅の候補者? 法律家じゃないらしいじゃん?」 「日本には ICCに出せる法律家はいないわけ?
あんた弁護士会からきてるんでしょ?」 とのNGOや諸政府から非難の嵐。批判に驚いている私の勉強不足もはなはだしいが、しかし、言われてみればもっともな話である。
齋賀さんは、外務官僚で、女性差別撤廃委員会の委員や埼玉県副知事を務めた方。現在は人権大使 (今、外務省が 「人権」 というと、北朝鮮問題のことを指す…)。
いろいろな伝聞の批判はここには書かないが、きわめて 「官僚的な方」 であるというのが総合評価のようである。
CICCが候補者に行った事前アンケートに齋賀さんは答えなかったとのことであった (そのこと自体がかなり 「日本」 の 「官僚的」)。
結果的に、日本政府が政治力 (資金力) を発揮して、齋賀さんはトップ当選を果たしたが、
会場にいる数少ない日本人として批判をバシバシ食らっていた私としては複雑な思いであった (日本国内で ICC認知度が上がるなど、いいこともあるとは思うが)。
私のような、いわゆる国際人権畑の隅っこの立場からすると、女性差別撤廃委員会や国際刑事裁判所などは、人権のための組織なので、
国際人権・人道に詳しい人が適任で、さらに国際裁判所は裁判所なのだから法曹関係者がいいのでは? せめて法律学者では? と思うのだが…… しかし、
これまでのアドホックな国際刑事法廷でも、国際人権・人道法で名前の知られる法曹・学者が選ばれたことはない。
思えば、国際機関の人事は全て政府内部で決められている!! なんてことだ。
国際機関の人事ってば、全く不透明に、政府の内部だけで決められていいとはとても思えない。
政府内外から候補者を募り、国際法に長けた人材をストックし、機会があるごとに、オープンな形で有能な人材を世界に送り出していくべきではなかろうか。
(注:この原稿の完成後、齋賀さんの後任の女性差別撤廃委員会の委員に、林陽子弁護士が民間から選ばれた! 林弁護士は、名実共に、
女性差別問題の専門家である。(私が現在所属する法律事務所 (東京共同法律事務所) に以前所属していたこともある私の大先輩でもある!) これからも、
民間からの採用が進むことを願ってやまない)
投票する各国代表団
* * *
一般討議での各国からの意見表明では、大多数の国が 「日本の批准を歓迎」 と日本に触れた。
改めて日本が大国であることを感じる。日本政府は、加盟国になった喜びを述べ、裁判官選挙のお礼を述べた。
また、日本は、GDPに従い ICCの予算の22%を分担することになる、(よって) より多くの日本の人材を ICCに送り込みたいとの意思表明をした。
世界各国が日本を歓迎しつつ、その影響力を恐れながら注視している。
■余談1 アフリカ紳士
初日、議場付近のソファーに座りランチをしていると、黒人紳士がやってきて隣に腰を下ろした。ウガンダのボツワナ大学で教授をしているという。
「私、アフリカに行ったことがあるんですよ。」 から始まって、「僕の名前、日本語でどう書くの?」 とか、
しまいに、「日本では法律家でなくても裁判官になれるの?」 「日本からの候補だから当選するね。」 とか、一通り話に花を咲かせた。
かなり話し込んだ後、その紳士が 「君を驚かせるかも?」 とおもむろに取り出したのは、裁判官立候補者紹介パンフ。真ん中には、どーんと彼の顔写真。
ダニエル・ンセレコ ICC判事とご一緒に
Oh, my god! 彼は裁判官候補者であった。
「これはこれは大変失礼しました。」
国際刑事裁判所の裁判官など、おそれおおい、全くもって手の届かない存在なのに、私は、そんな裁判官に、彼の名前をひらがなでどう書くか、指導までしてしまった。
(その後、彼は裁判官に当選した。)
■余談2 ポールさん
連日会議が続く中、ある日、エレベーターで一緒になった白人男性に声をかけられた。「あなた日本人? 日本大好き!」 とのこと。
夕食に誘われ、突如、その白人男性…オランダ全権大使 (!) のポールさんと二人でフランス料理を食べることに。在日大使館勤務の経験がある方で大変な日本通。
しかし、ポールさん、靖国参拝の話から従軍慰安婦問題まで、屈託のない意見を聞かせてくれた (オランダも、アメリカ・カナダ同様、従軍慰安婦問題で、
日本政府に対し謝罪をするように求める決議を今年出している。)。一国の全権大使がそんな政治的発言をしてしまっていいんだろうか、
とか、小心な日本人である私は逆に心配してしまったり。日本の外交官はエレベータで会った女性を食事に誘ったりしないんだろうな、
とか、食事の場での政治的発言は控えるんだろうな…とか、いろいろなことを思いながら、おいしくお食事をいただいた。
ICCへのオランダ特命全権大使ポールさんとお食事
■余談のまとめ
それにしても、日本政府代表団に近寄りにくいのは、私だけだろうか。うむ。私も身構えすぎなのだろう。
(2008年 「まなぶ」 1月号掲載)
2008.1.1
■カギ十字と首つり縄
ここ1ヶ月、コロンビア大学で、人種間の憎悪を強烈に感じさせられる出来事が続いた。
大学内のトイレの落書き。「アメリカはいつか立ち上がって、メッカ、メディナ、テヘラン、バグダッド、ジャカルタ、そして、アフリカの全ての野蛮な場所を核攻撃する。
おまえら、皆、くたばれ。アメリカは白人のヨーロッパ人のための国だ」
首つり縄が、黒人の教授の研究室のドアにかけてあるのが発見され、ユダヤ人教授の研究室のドアなど、学内にナチスのカギ十字の落書きが発見された。
直ちに、学生は抗議行動を行い、学長から全学生に、「寛容と相互の尊重がこの多様なコミュニィティでは中心的な価値である。」 「私たちは、一つのコミュニティである。
一つのコミュニティとして、私たちは、これらの忌まわしい行為を克服し、全ての個々人の尊厳と多様性に、最高位の尊敬を払う。」 とのメールが送られた。
しかし、ことはNY市全体の問題となった。首つり縄が市内数カ所 (9・11のグラウンドゼロの付近でも) で発見され、高校に人種差別の落書きがなされ、
シナゴーグ (ユダヤ教の教会) にもカギ十字の落書きがなされた。また、黒人の高校の校長に、「白人の力よ、永遠なれ!」 と書いた手紙が送りつけられた。
NY市は、自らを寛容な都市 ( a city of tolerance、「多様性に対し包容力のある都市」 といった意味) と宣言している。
NY市は、これらの出来事を受けて、11月29日を 「憎悪に反対する日 ( Day Out Against Hate )」 と宣言し、コロンビア大学を初め、市内で、イベントを行うことを決定した。
これでもかというアメリカ国旗の山・・・の中でスケート。ロックフェラーセンターにて
■■人種のルツボNY
NYは人種のメルティング・ポット (ルツボ) だと言われる。外国から来た人が、一番すぐに 「外国人」 でなく生活出来るのがNYだろう。
日本から来たばかりの、全くの東アジア人の顔をした私が、現地のアメリカ人に道を聞かれる。買い物をしても、「あ、外国人がいる」 という目で見られることは、まずない。
世界中に源をもつ人が実にたくさん住んでおり、あちらこちらに民族地域が形成され、多国籍文化が育っている。有名なチャイナタウンやリトルイタリー以外にも、
ギリシャ人街、ユダヤ人街等々、多くの民族がひしめき合って生活している。
(ちなみに日系人社会は中国・韓国人社会等に比べてそれほど強くないと聞く。日本人は、第二次大戦時に 「自分は敵国日本に属する者ではない。
アメリカ人である」 として、アメリカに同化する努力をしたという歴史があるからだそうだ。)

ドミニカンパレードの宣伝ポスター 157ストリート駅にて
夏には、毎週のように、各民族のイベントが開催される。今週末はドミニカ共和国パレード、翌週にインド人パレード、その翌週にブラジル人パレード、
その翌日にウェスタンインディアン人パレード (カリブ海の西インド諸島) という調子である。
普段はみな紛れて生活しているが、その日だけは、皆、お国カラーのTシャツに身を包んで、国旗を振ったり踊ったりしながら、
「こんなにブラジル人って、たくさんいたんだ!」 と思うくらい、大通りがそのパレードで埋め尽くされる。

祭 (大騒ぎ) の後で・・・157ストリート駅にて笑顔のドミニカン一家
一度、ドミニカ人パレードの後、興奮冷めやらぬ一行と地下鉄を乗り合わせた。車内には、白人も黒人もいるが、大声で興奮したスペイン語が飛び交い、
なにやら電車の後ろの方からガヤガヤした声が聞こえてきたかと思うと、10代の若者たちが20人も30人も、歌い、太鼓を鳴らし、踊りながら列をなして車両を移動して、
ドミニカンダンスを披露していった。私の車両にいた他のドミニカ人も大喜びで、隊列に加わって次の車両に移動していった。
その後、突然、車内放送で 「ドミニカーノ! (ドミニカ共和国万歳!)」 という雄叫びが数回とどろいた。
なんと、彼らは車内放送をジャックしたのだ。これで地下鉄の中での盛り上がりは最高潮に達した。
地下鉄自体がパレードの一部じゃないかと思うほど、ドミニカ人が自分たちの記念日を祝って、踊って歌って笑っていた。
日本の地下鉄を、中国人が、中国を祝って踊り歌って・・・、ということを想像すると、NYという街の寛容さがよく理解できる。

ブラジル人パレードで、国旗をまとってブラジリアングッズを売る
■民族間の差
もっとも、「メルティング・ポット」 ではなく、「サラダボール」 である、ともよく言われる。溶け合ってなどいない、というのだ。
冒頭に書いた、大学や市内での差別事件は象徴的な出来事であるが、人種間の差別、そして、経済格差は著しい。
この夏、ハンプトンという、NY州内の高級保養地に行く機会があった。ハンプトンは電車でマンハッタンから3時間弱の海辺の保養地である。
NYの多くの富豪層 (白人) が、巨大な邸宅を別荘として構え、そこで週末を過ごす。金曜の夜にマンハッタン付近から自家用機を飛ばしてハンプトンに向かい、
週末を別荘で過ごす。ダンスパーティを開き、プール際に寝そべり、自己所有のボート (というより豪華客船) に乗って、リゾートライフを満喫する。
そして、日曜の夜にマンハッタンに戻る・・・これが、NYのお金持ちの1週間の過ごし方だそうだ。
洗濯やゴミ捨てなどしなくてよろしい。月〜金の間に、有色人種の雇い人 (ラテンアメリカ人もしくは黒人) がやってくれる。
私がハンプトンに行ったときは、もちろん飛行機などないので車だったが、頭上を多くの自家用機が飛んでいった。
アパルトヘイト廃止直後の南アフリカを訪れたことがあるが、当時、南アでは未だ黒人と白人の経済的格差が著しく、
白人のプール付き邸宅の手入れに黒人が励んでいた。そっくりそのまま、今のNYにも、それと同じ風景がある。
■ハーレムの脇に住む私の生活
別荘地だけではなく、NYの中心でもその情景は変わらない。
私は、157ストリートに住んでいるが、そこは、ドミニカンハーレムと呼ばれる地域である。
日本人の思ういわゆる 「NY」 は、マンハッタン島という南北に細長い島のことを指すが、マンハッタン島においては大体の場所は、縦に走るアベニューと、
横に走るストリートで簡単に説明できる。南から1ストリートで始まり、北上すると、街の中心が30〜60ストリート、その後、100ストリート前後まで高級住宅街が続き、
その後に125ストリートがくる。 [参考] NYの地図
この125ストリートというのが、マンハッタン島を北と南にある意味大きく分ける通りであり、125より北は 「ハーレム」 と呼ばれる地域である。

タイムズスクエア駅
南北に走る地下鉄に乗って南から北上すると、125street 駅までに白人が次々と下車し、125street 駅を超えると車内の多くが黒人かラテンアメリカンとなる。
私は、そんな地下鉄にそのまま乗り続け、125ストリートを超え、黒人ハーレムを過ぎ、
スパニッシュハーレムといわれるドミニカ共和国やプエルトリコ出身の人の固まるラテンな地域に住んでいる。周りには日本人はほぼいない (私は1人も見たことはない)。
125ストリートを超えると、世界は、はっきりと違う。まず、景色が黒ずむ (薄汚れると言ってもよい)。おしゃれな店、かわいらしいカフェはなくなるし、
黒人やラテンの若者が街にたむろしていて、夜になれば少し怖い雰囲気も漂う。

私の住む157ストリート付近の町並み。ラテンアメリカな雰囲気
「157に住んでいる」 と友人に言うと、まず 「危険じゃないの?」 「大丈夫?」 「なんでそんなところに住んでるの?」 という質問が返ってくる。
先日など、日本人留学生の間で、「猿田が終に疲れて、引越したらしい」 という噂が流れたくらいであった (いや、快適に住んでいる)。
実際は犯罪率も下がり、生活自体は危険なこともなく、人々は明るく、のんびりしていて、私が引っ越してきたときには、
皆で引っ越しパーティをやってくれたくらい素敵な人々が集っている地域なのだが (そんなことは、125ストリートより南ではまずあり得ない)、
その街で見る格差たるや、悲しいものがある。
一番ショックだったのは、スーパーマーケットである。簡単には、新鮮な野菜や、おいしいパン、いい質の肉が手に入らない。
白人の住む地域と同じ高品質の物 (日本中どこでも手に入る質の物) が手に入らない。これが、アメリカか? と思うくらい、物が貧相である。
私は、それに気づかず、しばらく 「アメリカってば、こんなものか」 と生活していたが、ある日、学校帰りに、125ストリートより南のスーパーに行って、軽くめまいを覚えた。
全く品揃えが違う。24時間いつでも、焼きたてのおいしいパンやローストチキン、多くの種類の新鮮な野菜や肉が手に入る。
私自身が差別にあっているようなやるせない気持ちである。

ブロードウェイの110ストリート付近。
高級住宅街の一角であり、スーパーの品揃えも豊か
もっとも、大学のジンバブエ出身の友人 (黒人) から、「この前ハーレムに行ったら、黒人から 『アフリカ人はアフリカに帰れ!』 と罵倒された」 と聞いた。
差別の構造は、自分よりも下を作ることで安心をする、のだろう。
(経済格差と人種差別は少し問題が違うのではあるが、しかし、NYの経済格差は、人種毎になっている現実がある。)
■悩み深く・・・
NYでは、人種のことについて表だって口にすること自体がタブーになっていると、ロースクールの憲法の授業で教授が話していた。
各民族の文化も守られるべきだから、「メルティング・ポット」 ではなくて 「サラダボール」 でいいだろうが、民族間の不合理な差別・格差をなくし、
うまく混ざったおいしいサラダになる方法はないのか・・・。
つらつらと、私の身の回りの出来事をつづってみたが、多くの人が数世紀にわたって頭を痛めてきた問題の解決方法など、私に思いつくすべもないし、
問題の全体像すら把握できない・・・。それでも、人種について毎日考えさせられる日々である。NYでは、みなが、常に、根底にこの問題を抱え、
それぞれの方向で悩み考えているような気がする。
もっとも、日本の状況に照らしてみると・・・「教授の研究室に首つり縄なんて、アメリカの学生はなんて過激!?」 って、思います?
日本では、東京都知事が、公に、堂々と、中国人や韓国人を 「三国人」 (激しい差別用語) と呼び放ってしまうのですよ。
包容力など、ないよね。仮に、在日中国人が、例えば、東京・銀座の目抜き通りを、半日車両通行止めにして、
「中華人民共和国成立記念日」 パレードができる・・・はずもない。もし、そんなことを試みようものなら、今の右傾化した日本社会では、
一人や二人中国人が殺害されてしまいそうである。
「寛容な日本の日」 を作るって、どう?
(2007年 「まなぶ」 12月号掲載)
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